古萬古

萬古焼の創設者である沼波弄山の作品を特に古萬古といいます。彼は、幼児より茶道にはいり、道楽で朝日町小向にかまをつくり、茶道具を作り始めたのが萬古焼を生みだすきっかけになったといわれています。古萬古の陶法は、京焼の乾山から流れをくんでいて、硬彩釉による独特の赤絵、弄山の異国趣味からでた、斬新な図柄に大きな特徴があり、その出来栄えは、高く評価されています。
 

有節萬古

弄山の後、一時途絶えた萬古焼は、朝日町小向の森有節、千秋の兄弟によって再興されました。しかし、その陶法は、木型成形、軟彩による絵付等、弄山の子萬古とは異なるもので、ピンク色の発色をする絵陶を特色とするなど華麗なものでした。後の四日市萬古や桑名萬古は、いずれもこの有節萬古の流れをくむものです。
 

明治萬古

幕末のころ、水害により四日市には困窮民が続出しました。末永村(現四日市市末永町)の山中忠左衛門が、これらの困窮民の救済のために、萬古焼を四日市の地場産業として発展させようとしました。そのために彼は、資材を投げうって20年に近い歳月の間、試練を積み重ねたといわれています。彼の努力と垂坂山の良土は、たくさんの名工を生み出し、また四日市港の築港等の地理的好条件によって、地場産業としての基盤が築かれました。明治萬古を代表するものは、海外を意識したユニークなデザインの量産品と名工たちによる手捻りの紙のように薄い作品であり、いずれも明治という時代を感じさせる作品群です。
 

大正萬古

明治年代に陶磁器工業の中心地となった四日市も、やがて伸び悩みの状態となり、その状態を脱却させたのが半磁器を完成させた水谷寅次郎でした。この半磁器は、大正焼と命名され、黄濁色の非常に質がもろくこわれやすいものでしたが、当時の需要に適合し、燃料費の節約ができることもあって、機械化がすすみ、四日市における陶磁器工業の発展への大きな足がかりとなりました。

四日市萬古焼

昭和に入ると「硬質陶器」や「軽質陶器」が生産されるようになり、四日市は窯業地として、大きく発展しました。
第2次世界大戦での大きな打撃の後も、四日市萬古焼業者は焼野原のバラックの中から心血をそそいだ黒煙を立ち登らせ、戦前をしのぐ進展をみせたことは、まさに萬古不易の名に値するものでした。現在の四日市萬古焼は、日本屈指の生産高をあげており、伝統的技法を忠実に再現する努力も行われています。